話し手の西岡妙子さんのブログからシェアします。
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シュタイナー幼児教育 “体験談” の会では、毎回、参加者の疑問・質問をうかがってから、友人の西村さんと私の経験談をお話ししています。
●ここ2回重なったのが、〈「ほめる」に気を付ける〉ということ。
励ましたいからつい「ほめる」。でも、ほめるって実は難しい技法で、素人が手を出せるもんじゃないと、私たちは思っています。
ほめる、というのは、ある価値観に基づく評価の一種ですね。
お話の後で、「おしっこできたり、ごはんを全部食べたら、「お兄ちゃんだね!」とほめていますが、これはどうでしょうか」という質問がありました。
私たちの回答は、「ビミョーですね。in and out かな」というものでした。
でもまず、意識して自問できたところで、大人として一つ大きなステップを踏んでいますね、とお伝えしました。
さて、「お兄ちゃんだね」この言葉の裏には、どんな価値観や期待が隠れているでしょうか。
お兄ちゃん=えらい。赤ちゃん=すごくない。赤ちゃんは、何もできないから。何もできないのは、すごくないから。
例えばそんな価値観だとします。
そうすると、病気やケガ、老い、あるいは先天的な障がいで、「何もできない」という状況になった方について、それを「すごくない」とする価値観をも、あなたは是としますか?
それとも、その人たちは「特別だから、できなくてもいい」なのでしょうか? 何かができた時だけ、私たちは「エライ」のでしょうか。
そう考えると、かわいらしい「お兄ちゃんだね」の言葉の裏にある複雑な背景を、実感として受け止めることができると思います。何気ない言葉の中に、とんでもない価値観が無自覚に隠れていたりするものですね。
この「無自覚」がとても厄介なのです。
某シュタイナー保育園にも勤めている西村さんは、おしっこできたら「おしっこできたね。」全部食べたら「全部食べたね」と、事実をそのまま言うこと、そして「ほめるのではなく、一緒に喜びましょう!」と提案していました。
● そして昨日のお話会の後。
トイレに行ってくるから、ちょっと待っててね、と言い残してお母さんが去り、1歳児はしばらくして気づいて、泣きながら探し始めました。
私は役得……とばかり、その子を抱っこしていて、ほどなくしてお母さんが現れ、「ごめんごめん」と言いながら、その子を抱っこしてあやしていました。
そしてしばらくして彼女が「今の、ごめんっていうの、どうでしょう」
聞いてみると、「その言葉がしっくりきていない。本当は、ゴメンとは思っていないけど、便利だから使っている。トイレくらい一人で行かせてほしい、っていう気持ちもある」とのこと。
「あと、4月から職場復帰するから、毎日子どもにゴメン、と思ってて、その辺も引っかかってるのかなあ……」と。
そうかもしれません。何気ないひとことが、ずーっと心の奥深くにつながっていますね。
「ゴメン」に代わる言葉はあるかな?「お待たせ〜」とか、「寂しかったね、でももう来たよ」とか「待っててくれてありがとう」はどうかな。
気持ちにぴったり寄り添う言葉って、なんだろう。丁寧に言葉を探す姿は、作家か、詩人か、コピーライターのよう。
お母さんは言葉を紡ぎ、それを子供は吸収して、自分の言葉を獲得します。育児ってなんてクリエイティブ!
そうやって「問いを立てる」ことの、地道な積み重ね。自分自身の言動に、自覚していくこと。
それこそが、15歳児育児中の私たちが今でも使っている基本的な姿勢です。
●ご感想より
『子供は親に褒められたい→ほめられたいから頑張る→親がほめてくれる生き方をしよう……それは、自分の人生ではないな、と思いました。母親の私が、そうなので。』
●シュタイナー教育は、宗教ではありません。
なので、「信じる」ものではありません。
人生の問題は、考えて答えが出ないことのほうが多い。それでも生き抜いていくために、人間の生活に宗教は必要でしょう。
でもシュタイナー教育は、哲学であり、「シュタイナー先生はこう言っているけど、違うんじゃないかな」と疑ったり、彼の論理を実践したら、その整合性を実際自分で確認してみることが大切だと思います。
もちろん、私たちがお話会で話すことも、「試しにやってみて、本当かどうかを確認する」をぜひやってほしいと思います。異論反論、大歓迎です。
そうやって物事は磨かれ、深まっていき、私たちは自由になっていくのですから。
【手仕事】
Umiのいえ
4/25(木)こびと(縫物?)
4/28(土)虹染め(染色)、フェルトポーチ(羊毛)、積み木(木工)
ブログ → https://www.wonders.fun/