スタッフリレーコラム 【赤ちゃんが、高校生になりました】

今回は、麻紀子さん、美保さんに次ぐ古株スタッフさとみです〜〜😆
ではどうぞ⬇️⬇️⬇️
👶赤ちゃんが、高校生になりました🙍🏻‍♀️
Umiのいえを知ったのは、2008年の3月。
娘は1歳2ヶ月。私は29歳。育休が終わる直前でした。
「みんな育てているんだし、なんとかなるだろう」
と思っていた私は、何をしても泣き止まない娘の育児で疲れ果て、もう限界ギリッギリでした。
 娘を殴りそう。
 なんで夫は何も手伝ってくれないの。
 あてつけに二人で飛び降りたい。
毎日真っ黒な考えが頭をぐるぐるして、起き上がれずただ授乳をして、夕方になるまで家を出られず、まぁ完全に産後うつだったと思います。離乳食をいつどう始めたのかも、もう何にも覚えてないです。
母親の反対を押し切って結婚出産したため、
ひとりの育児が辛くても、実家には弱みを見せたくなかった。
それでも、母親が東京の友達に会いに来たついでにうちに寄ってくれました。
「一日、ひとりで出かけてきたら。」
私が求めてやまないものは、ひとりの、
何にも邪魔されない時間でした。
1年ずっと、心も体も、他人の都合に支配される感覚がとてもとても辛かった。
母親との確執もこのときばかりは都合良く忘れ、
じゃあ出かけてくる、と携帯(スマホはまだ無かった時代です!)で検索。
当時はmixiが盛んで、横浜 子育て で検索したら
「Umiのいえ」コミュニティ(FBページみたいなもの)を見つけました。
明日何やってるのかな…
ママのためのクラニオセイクラルセラピー?
なんだろー…とにかく癒されたい…
と思って、母に娘を預けひとりで向かいました。
当時は、女将麻紀子さんが相鉄線西谷駅近くのワンルームマンションでUmiのいえを立ち上げて半年ほど。
相鉄線も、初めて乗りました。
知らない路線の、知らない景色に揺られる。
びっくりするほど何にもない駅前から徒歩1分の駅近に当時のUmiのいえはありました。
Umiのいえが4階、1階奥に齋藤整骨院。
三組くらいの親子がいて、みっちゃん先生が講師。
ただ触れるだけのシンプルなお手当てを教わりました。
横になって、お母さん同士で、足の甲に触れただけで
でろーーーーーーーん
と全身が溶かした寒天になったみたいに、平らに溶けました。
何だこれ〜〜〜………
気持ちよさと不思議さに、心も緩んだんだと思います。
講座のあと麻紀子さんに、ものっっっすごい勢いで、
ずーーーーーーーーーーーーっと
ここまでの子育ての辛さを話し倒しました。
多分、泣きながら話してたと思います。
溜まっていた気持ちを
どばーーーーーー
と解放しながら
「こういう場所が必要だ」
「こういう機会がないと女性は死んでしまう」
と、はっきり感じました。
その後すぐ、スタッフになりました。
復職した仕事の合間に手伝い、
そして仕事をやめて、専従スタッフに。
Umiのいえで、いろんなお母さんたちの、
苦しい気持ちを
わ か る ぅ 〜
と思いながら聞いて、サロンならば背中をさすさすします。
それから15年経ちました。
泣いて泣いて大変だった娘も、高校生になりました。
我が家にはお手当てが日常にあるので、思春期以降も
「おかーさんなんて大っ嫌い!
 でもぎゅーして。」
ということがしょっちゅうあります。
ムカつくけど
ぎゅーしてほしい
それは決して矛盾ではない
我が家においては自然なこと。
「お母さんと私は、ほんっっとに、
 趣味が合わない」
とも言われます。それが快感でもあります。ははは。
(こういう態度をまた、娘には「私の気持ちをわかっちゃいねえ」と言われますね…はい、スミマセン)
単純なイヤイヤ期とは違う、ひとりの人間として
正面切って「あんたと私は違う」とバッサリ言える。
その上で一緒にいられます。
合わないと嫌いが別物であることも、体感として知っています。
やさしく触れて待つだけで
その人の持つ力はすくすく伸びます。
いやー、すくすく育ったな、多分。
お手当てと、その考え方との出会いをくれたのは、当時反発していた母に頼った一日があったから。
なので、苦しいときは、
絶対に
ひとりでがんばらずに
誰かに頼って、誰かに撫でてもらったり
話をしたりしてみてね。
Umiのいえは、
子どもを抱えた親子が遠慮なくダイブできる
でっかいクッションでありたいです。
 
スタッフさとみ